2013年10月25日金曜日

村上春樹の都市理論 -物語の主人公から都市の特徴をとらえる-

再び気分転換!笑


これは大学で書いたプチレポートなのですが、村上春樹おたくの教授から結構いい評価をいただいたので、載せておきます。みなさんはどのように考えるでしょうか。



彼のおかげで、村上春樹の小説が大好きになったので、先生に感謝感謝。



ワタシいい加減に仕事しろ。笑


それでは、勉強に戻りますぇ。。。。 J'ai pas envie...


À très bientôt ^^






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村上春樹の作品の中での特徴は、「東京で事件が勃発する」ということがいえるだろう。例えば、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、近未来の東京で主人公の「私」が、博士のデータを計算することを依頼されたことから始まる。また、『1Q84』では、青豆が首都高速の三軒茶屋での非常口を抜けたことから物語が始まっていく。『ノルウェイの森』においても、東京で、渡辺が直子を抱いた後に直子が京都の療養所へ行くという展開がしており、「東京」と「京都」という二つの都市がでてくる。『国境の南、太陽の西』でも、東京と京都が登場しており、東京のバーで成功した主人公が島本さんと再会したことが一つの事件となっている。都市から始まる彼の物語は、いったい彼にとって都市をどのような位置づけとしているのか。また、物語の中で都市は何の意味があるのだろうか。
 村上春樹の物語は、都市は様々なシーンで登場し、我々読者に「都市」を通して様々なメッセージを発信している。都市を舞台にする主人公の特徴は、最初は「ごく普通の人」という印象がある。都市の中で毎日単調で同じような生活をすることによって、自分としてのアイデンティティとは何かと考えさせられる。そして、東京での事件を発端に、主人公が動きだし、自分としての感情を垣間見て、自分らしさを見いだすようになる。これは、そこらの田舎ではなく、都市を舞台にするからできる物語の展開方法なのではないか。そして、「都市の中にいる自分」という物語の展開と、「都市」自体の特徴を村上春樹は描き、現代の日本の都市を象徴しているのではないだろうか。
 まず都市と特徴づけるものとして、「パラレルワールドの一部としての都市」があるのではないだろうか。村上春樹の小説の多くは、「こちら側の世である都市」と「向こう側の世界」がある。そして、「向こう側の世界」に通じるためには、必ず都市が舞台となっている。例えば、『ねじまき鳥クロニクル』では、向こう側の世界へ行き妻のクミコと再会をするために、東京の自宅の近くの井戸に入る。また、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、都市の表の世界(計算士の組織であるシステム)と裏の世界(やみくろ、記号士の組織であるファクトリー)という対比も表している。その中で、唯一シャフリングができる主人公の「脳」を通じて向こう側の世界である「世界の終わり」へと通じることができるのである。この時の都市の位置づけは、向こう側としての位置づけである「自分たちの世界」と正反対である「国家の理論、組織の世界」を表しているのではないだろうか。パラレルワールドを描いている村上春樹の作品の多くの主人公は、都市の単調な組織の中にいる。そして、都市の世界に対して「受け身」である。受け身になっているうちにいつのまにか、「向こう側の世界」へ行くことに巻き込まれてしまうのである。おそらく、都市での生活において、我々は国家や組織の世界に巻き込まれて、それに無意識に従っているということを村上春樹はメッセージに入れているのかもしれない。
 パラレルワールドとしての都市の他に、都市と都市の対比がある。それが、『ノルウェイの森』と『国境の南、太陽の西』がいえるだろう。『ノルウェイの森』では、東京としての「都市」は、世俗的、いい加減な状況を表している。その典型的な人物として、永沢さんがいえるであろう。彼はとても頭がいいという意味で世俗的ではないが、恋人がいるのにも関わらず一晩限りの関係を持つ人という意味で、いい加減であり、破綻した状況といえる。そして、現実に対してひどくアンニュイの感情を持っている。このような状態を東京として表している。それに対して、療養所での京都は、自然豊かで静寂な町であることを強調している。そして、京都にいる直子、東京にいる緑という三角関係も形作られている。また、『国境の南、太陽の西』では、東京は世俗にまみれて純粋さを失った存在であることを、「不倫」になぞって描いていることがわかる。また、そういう世界で成功をおさめ、のうのうと生きている場所としても東京が位置づけられているだろう。それに対して、この作品における京都は、主人公が浮気の事件を起こしたところであり、あるきっかけで彼女であったイズミの変わり果てた姿を東京で見て、驚きを隠せないでいる。このような「複雑な感情が入り交じっている」東京に対して、京都は、昔や思い出を思い出させる、「残存記憶」としての要素が入っている。これは、村上春樹の出身地である神戸に近いからではないか、という説もある。いずれにしても、都市としての東京は、様々な要素で対比されていることがわかる。
 また、村上春樹の作品における都市の位置づけとして、もう一つ重要である要素は、都市の中の「暴力」が健在しているということである。『ねじまき鳥クロニクル』における綿谷ノボルが一番わかりやすい例であるかもしれない。主人公の岡田亨の妻クミコの兄である綿谷ノボルは、退職している亨とは対照的である。彼は、経済アナリストである彼は次第にマスメディアに注目され、政治家になるまでに至る。しかし、彼の権力が拡大していく中で、亨、加納クレタ、クミコに対する暴力へと発展していく。亨はノボルに対して直接戦えない、見えない、大きい権力と思っているが、これは、個人的な権力ではなく、国単位の権力とも類似している。その舞台が東京であること、ノボルがテレビなどで注目されていることを考えると、東京における権力構造を感じさせられる。
 綿谷ノボルの他にも、先述した『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のやみくろにも「都市の暴力」的な要素がある。やみくろは、都市の地下に生息しており、博士の地下の研究室に行くためには、やみくろの住処を通っていかなければならない。やみくろは光に弱く、主に腐敗物を食する。普段、人間にはやみくろを見ることもなく、存在もあやふやである。しかし、システムと対立しているファクトリーがやみくろと手を組むことによって、システムの情報を盗もうとしている。これは、普段都市に潜んでいる勢力が、社会を動かすこともできる存在であるということが言えるであろう。
 このように、都市には複雑な感情や要素が込み入っている。それに同調している登場人物が、向こう側の世界へ行くことによって自分の感情を垣間見る、という展開が多くみられている。都市へ同調している主人公のほとんどが「やれやれ」と言っていることがわかる。これは、主人公の多くが「受け身である」という特徴からも言えるかもしれないが、都市の中に潜んでいる物事の本質を保留し、諦めるという意味での「やれやれ」も含まれているのではないだろうか。これは、我々にとっても同じようなことがいえるのかもしれない。
 村上春樹の文学世界では、我々にとって、一見普通では起こりそうもない、我々には降り掛からないような「特殊な物語」に見える。しかし、舞台や状況があまりにも普遍的であるため、そのような概念に疑問を抱くときもある。村上春樹は、物語を通して、常に我々の世界である都市と隣り合わせである「向こう側の世界」である自分の世界、アイデンティティを示しているのではないだろうか。そして、我々に特殊な観点から普遍的なメッセージを送っているのかもしれない。その舞台として、都市である東京はとても有効であると考えられる。

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