2014年6月24日火曜日

異文化コミュニケーションについての見解

「異文化コミュニケーション」






その言葉をよく耳にするようになったのはまだまだ最近の話だと思う。


私が大学のときも、異文化コミュニケーションを題材にした授業がたくさんあった。


異文化コミュニケーションをする意義というのは、
おそらく、外国や異文化に触れることで、いわゆるコミュニケーション能力を向上していったり、自己啓発のきっかけになったり、日本のいいところを見つけて、それを自分なりに活かしていく、など、自分と違うことを吸収して、自分なりに「アウトプット」していくことなんだと思う。


グローバル化した影響もあって、外国の文化も入りやすくなって。
「単一民族」と言われていた日本も、いわゆる「文化のるつぼ」に触れやすくなり、外国に留学すれば、「入りやすくなった」。


私の見解では「異文化コミュニケーション」ができたのは、
違う文化を受け入れ、尊重して、コミュニケーションをとる「キャパシティ」をつくるためなんだと思う。


けど、異文化コミュニケーションの対象を「外国」に向けすぎている印象があって、日本の中にある「異文化の歯車」が、ギシギシと音を立ててずれかけているような気がする。


 日本にも、「異文化」はある。


私の個人的な見解だから、違う意見を持っている人もいるかもしれないけれども、

文化っていうのは、自分自身が習慣にしていること、当たり前にしていること、大事にしていること、尊重していること。そういう「基礎」なんだと思う。

だからこそ、自分らしさとか帰属意識だとか、アイデンティティが生まれる。


 そういう「自分が大切にしている価値観」と全く違うことを大事にしている人だって、日本の中にはたくさんいると思う。

極端にいえば、男と女だって異文化。

地域と地域の違いだって、異文化。

ジェネレーションギャップだって、異文化。

仕事の違いだって、異文化。


そういうたくさんの「異文化」を日本にだってある。

大事なのは、それをどう「受け入れて、話を聞く努力をするか」っていうことだと思う。


例の野次の件にたいする意見で、「男と女の議論は、らちがあかない。」「区別はついているのだから、どうしようもない」という意見を聞くが、この考えは一歩間違えれば、とても危険だと思う。

「議論の放棄」になりかねない。



「男だから」、「女だから」、で片づけられない問題がたくさんある。どんなに埒があかなくても、この問題がつづく限り、向き合わなければならないと思う。男女問題だけでなく、いろんな差別の問題もしかり。

区別から生まれる「差別」の気持ちに、向き合わなければいけない。



日本独特の特技(?)である

「暗黙の了解」や、「空気を読む」

には、たくさんの人の「話を聞いてくれない痛み」があってこそなんだなぁと
最近実感したのであります。



一人一人が、もう少し、一歩引いて話を聞こうとする姿勢や努力をすれば

「異文化コミュニケーション」なんて言葉もでてこなかったんじゃないのかなぁ。。。。

そういうのは、外国に対してだろうが、日本国内に対してだろうが、「違うものを受け入れる大切さ」っていうのは、国関係なく、同じように大切なことなのだから。



日本の空気を読むスキルが卓越していることに対して、私が留学していたフランスは、とことん議論する。潔いくらいに、みんな誰でも「話す」。

それは、誰にでも、「話す」ための場が用意されていて、それをみんな自覚しているからなんだなあと思う。



日本は、なかなかそれが難しい。同調しなければならないときもある、意見がなかなか言えないときがある。それを、「日本人はひとつ」と片づけてはいけないんじゃないかなぁ。。

より多くの人が、人の話を聞く姿勢をもってくれればなあ。